====================  感想もしくは愚痴(散文)  HugeAppendex HugeApp.txt (巨大な虫垂)  2023April 文責Miyama.  KazutomiMiyama@outlook.jp ====================  すべての偶蹄類が、牛のように複数の胃袋 を持ち、また食べ物を反芻するのかどうかは 寡聞にて筆者は知りません。  しかし草食動物である馬は奇蹄類であり、 反芻用の胃袋を持っていません。偶蹄類以外 の多くの動物では、草をため込み発酵させる のに、胃ではなく盲腸を大きくさせて対応し ています。  俗に「盲腸」と呼ばれるのは、虫垂炎のこ とでであり、人間では不要になった盲腸が縮 退して、ちいさないらない、ひもになってい ます。  これらに掛けて、  このファイルの以下の内容が、 ・いらないappendex、 ・どうでもいいことをためこんで、  蒸し返すこと  という意味で、「盲腸ファイル」の内容と 呼びたいと思います。 (うさぎは、もし未消化だと〇をもう一回食 べるそうです。お食事中の方ゴメンナサイ。)  過酷な化学反応を代わりに行ってくれると いう意味で、微生物や細菌は、ビタミンの供 給源になってくれているということは意外に 知られていません。  耳障り・舌触りのいっけんよい原色であま ーいお菓子ではなく、漬物をたべましょうと デカンショや菜根譚が言ったかどうかは知り ませんが、  以下はそういう内容になっています。  これはパッケージのreadmeの後半だったフ ァイルです。内容がくそやかましいので、切 り離しました。  ※注釈:漫画について  付け加えたいことを、ここに書きます。  やはり書いておきたいと思います。  一見大したことではないようなことですが、 よく考えると、結構重大なことがらですので。  書いたものを再度俯瞰し、言い回しに漫画 の影響がある比喩がちらほらあるのに気が付 きました。  母国語を選べないような意味で、  漫画で育った筆者は感情的な意味では、  漫画を嫌いになることができません。  しかし論理的には、どう考えても漫画の悪 影響は世間から払拭しなければならない段階 に来ているようです。      *  一言で言えば、  漫画は大人になったら卒業しなければなら ないものだというなのです。  野球漫画に憧れたら、甲子園を目指し、  ロボット動画にあこがれたら、機工メーカ ーに就職するのが憧れに対する正当なぶつか り方だとおもいます。  子供のうちは、対象に手が届かないから、 大人になるまでの助走期間として、漫画を読 んで気持ちを充電することも必要なこともあ るでしょう。 「青年漫画」という最悪の発明がありますが、  結局はその言葉の自己矛盾にあるように、 大人になって、金も体力も手に入れることが できたのであれば、  現実の世界でそれぞれの対象に、具体的な たちでアプローチすべきなのです。  そうでない漫画への関わり方というのは、  何もしないことといういいわけという意味 でのモラトリアムでしかありません。  大人になってまでロボットプラモデルに過 剰に昵懇しているのは、健全な文明論から言 えば、残念ながら唾棄すべき現象なのです。  一昔前には、大人になってまでコミックを 読んでいるのは日本だけだ、と聞きました。  栗本氏の概念を借りれば、  ネットとは、欲望むき出しのパンツの内側 という個室・子供部屋を、全世界的にそれこ そ億の規模で連結・結合したものにほかなら ず、  そこでは、しばしば羞恥、卒業、社会的な 役割というものがいとも簡単に脱ぎ捨てられ ています。  そのようないわば劣化のひびを通じて、日 本の漫画動画が海外に染み出しているのは、  旅行者が原色のぬいぐるみを嬉しそうに抱 えているのをみるたび、筆者は複雑な気分に なります。  入管で、おそらく神経衰弱で亡くなったス リランカの女性がおもったかもしれないこと は、  けして、  日本は、ミニスカートの高校生の皆が生活 も将来への不安もなく、笑顔と恋愛にうつつ を抜かしている国では、 「なかった」  ということかもしれません。  着ぐるみを着た現職の国家元首と、  このスリランカ女性の逸話は、  陽電子と電子の対創生の一対のように、 おもてうら、決して切り離すことができない 概念的な象徴的な対、です。  むかし、リオ・デ・ジャネイロの画像を見 て、筆者はこれはまずい、とおもいました。  誰かにたのまれたのでしょうが、バランス 感覚の意味で、このように調子に乗っていて、 なにかうまくいかなくなるのではとおもいま したが・・・。  結局、その一対はふたつの鬼籍案件になっ てしまいました。  ・・・この意味で、非常に広い意味では、 モラトリアムとしての漫画や動画は、その存 在まるごと審判が下っているように、自分に は思えてならないのです。      *  漫画の神様と呼ばれた人が、生前、漫画は 遺産としては残らないと言っていたそうです。  また、  それでいいのだともいっていたそうです。  筆者もどこかにかいたとおもいますが、  文章は最低、文化・文明の手段にもなりう るかもしれないが、  漫画は流行・風俗にすぎなく、それはけし て主体的に社会を推し進める力にはけっして なりえないのではないか、と。  そもそも、漫画とはエジソンが発明した映 画の模倣として出発したので、  大人としての行動力・資金力があれば映画 を製作するのが筋でしょう。  成熟した社会で、だらだら漫画をかきつづ けることは、メディアの形式的にもモラトリ アムなのかもしれません。  また、産業としての映画は、エンターテイ メントですから娯楽であり、別に希求する思 想があるわけではありません。  独白としての文章はときに、首根っこをつ かむ思想であることがありますが、 「おはなし」であるエンターテイメントが、 お客さんである視聴者氏各々を、けして問い ただすことはありません。  これは、衆愚政治における選挙と同じで、  本当のことを訴えようとすると、しばしば 政治家は失脚してしまいます。  漫画や、娯楽というものは、社会を引っ張 る力にはなりえないだろうという指摘は、構 造的にはたぶんここにあります。  手弁当で義侠心に参加するなんてことは、 彼らにしてみれば、理解のはるか彼方にあり、  田○者の○男が、  すり込まれた思い込みで、どこかで見たよ うなものを作り始めるのはともかく、  収拾がつかなくなった赤字の山は結局既存 の資本に泣きつくことになってしまい、  羞恥を脱ぎ捨て、簡単にライセンスをパチ ンコに売り捨ててしまいます。  時代の応援団が聞いて呆れますね。  結局、卑怯な子供場屋は、自分たちのこと しか考えていないのです。      *  研究者には、  漫画や甘いものが好きな人が多いです。  蛸壺としての研究室と、  モラトリアムとしての漫画がはびこった子 供部屋とは、  心理学的には同じものかもしれません。  オペレーティングシステムの開発コードに、 お菓子のニックネームをつけたのはよしとし ても、  オフィスに大人が滑るすべり台があると聞 いたときには、筆者は内心眉をひそめました。  ノーネクタイはまだよしとしても、  それは、カジュアル志向の暴走ではないか、 と思いました。  そういう連中が、結局は現実には健全に機 能し得ないSNSのシステムを作ったのです。  冷戦が集結して、あまった資金と人材がつ くったものが「こんなもの」でしかなかった のならば、 「アメリカは、  世界に対する責任を果たしていない」  といわれてもしかたがありません。      *  大人と漫画をとりまく背景には、ざっと述 べただけでもこのような事情があるので、  安易にユーモアを漫画ねたにふるのは、じ つはあまり良いことではないのです。      *  ただ書いてしまいましたので、  改めて編集することは多大な労力がかかり ますので、  以上の「注釈」の文章を追加するにとどめ  以下の文章はそのままの状態で上梓するこ とにいたします・・・。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  この作業をはじめて、当時の文章に触れ、 時代や自分がまだ希望を持っていた頃の感覚 を懐かしく思いました。  いわゆる同人誌即売会などがちらほら散在 するようになり、  素朴な自己実現としてのミニコミブームが、 おそらく衣食住満ち足りたことを背景として 到来していました。  当時、西武本店のかたすみに、池袋モンパ ルナスよろしく、ポエムコーナーなども存在 し、清二氏がいわゆる、パソコン通信で発言 したりしていました。  素朴に、池田勇人氏の描いた世界ではあり ました。  もともとの筆者としての日曜プログラマと しての流れのはじまりは、  友人に譲ってもらったワードプロセッサで す。  機会として、ミニコミブームより、手記を 書くことを憶えてはいましたが  その機械がなければ現在の自分のオンライ ンもなかったことでしょう。  クエリーキーボード配列の運指は、そのワ ープロで覚えました。  そのうち、薄給の中から数千円をだして、 286マシンの9801RXを買い、ワープ ロとして使用するようになりました。  オーロラエースとATOKです。  SomethingGood社は馬場にありました。  多分早稲田理工のからみなのでしょうが、 ユーティリティを買いに遊びにいったことが あります。  今にしておもえばもっといろいろな世間話 をすればよかったような・・・。  新宿の中古屋で、4000円ほどの4メガ の拡張RAMボードを買い、RAMドライブ(現 在のSSDの概念に相当)として高速さが要求 される辞書ファイルの文字列置換処理などを 行っていました。  niftyに登録していた辞書アーカイブをベ クターさんがスカウトしたのが、自分のベク ターIDのデビューではありました。  そのうち宇宙探査機によるNASAブーム・ 高校の部活の延長、として天体の軌道計算や 二次方程式などの再確認を兼ねてコマンドラ インの言語にも手を出していました。  数万円の言語パッケージは、支出として痛 かったです。  今でこその自分は、たとえばザッカーバー グ氏を青臭いと嫌う立場ですが、この頃はも ちろん自分にも学生気分のただなかに確かに いたのです。  というより、世相がそういう意味でよく言 えば希望に輝いていました。  当時の漫画動画を揶揄して象徴すれば、 「愛は冷戦に打ち勝つ」  といったところでしょうか  これはもちろん同胞愛をもふくみ、いわゆ るヒッピーがさんざん唱えてきたお題目では あります。  科学ブームや平和主義が結局は、世代やヒ ッピーのファッションでしかなかったのは、 その後の時代を再点検すれば明らかです。  科学技術は軍事に繋がるので、多少はその その存在そのものが痛みを伴い、  ヒッピーは自分たちの利害を優先するので、 ぼろぼろのベトナム帰還兵につばを吐きかけ たそうです。  生物学を学べば、菜食主義の観念には再点 検すべきところが多いことがわかります。      *  宇宙局の重鎮氏が白血病に罹患したのは、 心労からと推測してますが、  希望は結構高コストに付き、  確かめられていなかった光り輝く希望の白 い輝きに打ち消され隠されていたことのひと つは、  ヒッピーとは結局親がかりの自立していな い、烏合スタイルのいわばごろつきだという ことでした。  いいかえれば、甘くて無責任なのです。  高学歴集団の毒ガス事件は、いわばヒッピ ーのコミューンがおこしたともみることがで きるかもしれません。  後でも書いていますが、  冷戦が崩壊して、軍事にふりわけられてい た人材が民生に降下してきたところまではい いのですが、  国防という、つくりものながらもの正義が 揮発してしまったが故に、技術はしばしば恣 意の卑怯のころもをまとうこともあったのか もしれません。  いわゆる後進の地域は、人材と資源をすい とられて、郷土は荒廃するばかりだ、  という主観をいわば旧東側の人々がいだい たとしても不思議ではないのかもしれません。  ・・・明示的に書きたいことは、今までの、 しばしば甘かった価値観に立つ限り、時代や 歴史は次第に悪化の一途をたどっているとし かおもえないことです。  未来の世界経済の現実は、  人口過剰のゼロサムであり、  自分を含め、  人間とは忘れっぽい生き物であり、また尻 に火がつかなければ重い腰をあげようとしま せん。  また苦難を忘れるどころか、  そもそも窮乏や苦難を知らない世代がそれ らに思いをいたらせることができないのは、 むしろ当然のことです。  このような状況では、利便とは、卑怯や隠 蔽や無知を加速させるために使われるもので しかなくなることになります。  またいわゆる麻薬は、現状におべっかをつ かい、宿題や国債を先延ばしにし、  酔いが覚めた昼過ぎに、  ぜんぜん部屋が片付いていないことに癇癪 を起こして、家中の窓ガラスを叩き割ってし まうという意味で、  前述の利便というものの悪い面であるとも 言えます。 (アルコールは、中間産物のアルデヒドを介 して脳内麻薬の作用を安定化させるので、そ の意味では広義の麻薬です。)  そのような意味で、スマートフォンとして の携帯電話とは、まさに麻薬や飲酒でしかな かったな、とおもうこの頃です。「百薬の長」 の側面もあるのかもしれませんが、それより は無制限の普及の副作用のほうが、自分には 大きな不幸にみえてなりません。  それは安易に甘やかしてくれる、ときに高 額なスナックのようなもので、その普及は特 に若い世代にとって、情動的・衝動的にふる まいすることになりにすれ、  論理的に経験を次の行動として組み立てい く、冷静で主体的な意識をないがしろにする 風潮を強めたようにもみえます。  考える力を失った世代と、  世相、というものが見えます。  これは、興行的なマーケティングが喉から 手が出るほど欲しがる状況で、  クライアントは、  粒が小さく、あたまが悪くて、直情経行で、  地域社会や親族老師からの賢明な忠告から 分断化されて、 「ぼっち」な個別担体であったほうが、  粗悪な商品やサービスを高くうりつけ、  安くこき使うにはちょうどいいのです。  これは素朴な部族社会が、アメリカの悪の 側面をかたるとき、言いそうな指摘ではあり ます。  また、  正義感をうしなった技術者の階層が、民生 で卑怯をなすのが、もし冷戦後でそこここに あった現象だったとすれば、  すくなくともアメリカは冷戦崩壊後に、よ り悪い世相になったともいえるかもしれませ ん。  これは対外的にも強く起こった効果かもし れません、  世界各地「スマホの春」後におこった政権 が足腰が弱いのは、最近の教訓ではあります。  これでは、扇動され結果、民主主義を取り 上げられても仕方のない事態をまねくかもし れないのです。      *  人間は哺乳類として、精神が弱い生き物で あり、定期的に悲惨なな目に合わなければ、 なんら歴史や経験から学ばない存在であると いう指摘は、  人間の世界から、残念ながら戦争や悲劇を 永遠に追放することは不可能であるという帰 納にもなります。      *  戦争のない世界は、逆に不平等やその結果 の餓死が横行する世界です。 (戦争の死因で、もっとも多いのは、戦闘に よる直接死ではなく、兵士であれば兵站、市 民であれば経済物流の停止による餓死がもっ とも多いのですが、  その指摘はひとまず置きます。)  日本人が、デフレから脱却できないのは、  暴動よりは平和な、餓死や切腹が美学であ るという、  字としての、地平線平和のお行儀を醸成し たからです。  徳川体制は、その厭武の雰囲気に乗ったの で数百年も続くことができました。 「民はみだる、君子はただ窮するのみ」  儒教ですね。  かつての徳川体制とは、その意味で平和第 一主義の政体であり、  将来に於いても、影に隠れたこぜりあいを 解決できない国際連盟や国際連合とはが目指 すべき現実的な理想像とも言えます。  これはもちろん皮肉ではあります。  ゼロサム社会は、数十年後にはこの惑星の 深刻な現実になりますから、  現在日本を訪れている留学生氏は、あるい はいずれ、日本の平和主義という餓死デフレ を世界の隅々にまで輸出することになるかも しれないのです。  餓死を良しとするか、  戦死を良しとするかは、  もちろん意見がわかれるところのものでし ょう。  徳川政権の末期にもちろんそれらを部分否 定することが盛んになり、  それがいわば幕末のはじまりになったので すが、  それはキーワードとして、  勤王 と  殖産興業  を語りました。  危険なことなのですが、  土臭い、ほこり臭い感覚から見ればそれら はつねにきらきらした魔法にみえます。  これは人間社会の現象としてほかの世界で もおこりうる、  おきたことだと言ってもいいと想います。  ・・・儒教が必ずしもそうであるかは筆者 は知りませんが、その世界観は老荘のような 小国寡民の世界に見えます。  差し渡し数キロの円環の地平線に閉ざされ た字こそが世界であるとすれば、少なくとも それは江戸期の儒教の扱われ方とは合致しま す。  儒教は王は語っても皇帝をかたることはな かったような気がします。  中華の歴史で、皇帝を語ったのはおそらく 法家の系統で、そこには高度な抽象観念の飛 躍があります。  抽象権威と、実効性に裏打ちされた法律機 構が結びつき、  王権神授説によって税が官僚機構に流れ込 む給金として組織を動かすとき、  帝国というものが出現します。  官吏や警察権に国家が資金を保証し、  かれらが警棒を持って農民に税を納めろと、  ぼかぼかやることによって、また資金が循 環することがいわば帝国国家です。  鎌倉以降、  経済政治的には農本位・地域本位の制度は そこまでえげつはなかったので、武断封建、 徳川体制は長く続いたともいえるかもしれま せん。※文末参照  余談ですが、律令体制はその無理がたたっ て早期に崩壊しました。  天皇家や皇帝を、地平線のむこうにおわし ます高貴な存在として想うとき、  それは現実の限界である地平線を突破する という意味で論理の抽象化へと飛躍します。  逆に言えば、字の実在が薄くなり、  税の意味でその負担が増すことになります。  幕末で言えば不平浪人が勤王を唱えたのは、  その機構で資金を捻出し、技術や軍艦を買 わなければ侵略されて日本はとんでもないこ とになる、という言い分があったことなので しょう。  もっとも、ロマンチックな、無責任なヒッ ピー同然の浪士も多かったかもしれません。  殖産興業でいえば、  字の需要・必要以上の物産を生産し、対外 的に取引するということですから、  これもやはり商人を通じて、観念のとばり であるところの地平線を越えていかなければ なりません。  かならずしも生活必需品ではない工業原料 や手工業製品を製造・輸出し、  またそれらへの依存が発生するとすれば、  生活としての安全保障はどうするのか、と いうことが経営や為政者にとって、頭の痛い 問題となります。  穀物と違って、工業製品の在庫は、売れ残 ったときに煮炊きして食べられるものではな いからです。  すぐに食べられるリアルではないという意 味で、工業製品の在庫とは、これもまた抽象 の存在です。  モンゴルやアラビア世界がそうだったよう に、  広域権威とは、広域通商のために機能でき、  ゆえに帝国や皇帝という抽象概念は、土豪 的な現実主義からみれば、より商工業に傾い た、いわばはなやかな世界にみえます。  日本で言えば、神戸がそうでした。神戸の 背景にあったものは、大陸です。  ロマンチックなものは、抽象なのかもしれ ません。  メディアの液晶に映った料理は、どんなに 美しくても食べられないものなのだ、という ことは白旗源氏勢力なら言うかもしれません。  金融が魔法であると勘違いする意識はおそ らくこの辺りから出てきます。  抽象、権威と貨幣による官僚機構という意 味では、中華でも帝国は遊牧民・商工産業が 基盤になっています。  秦・唐・殷・斎と書けばわかるでしょうか。  この意味で、儒教や朱子学に厳格である限 り、上杉鷹山が名君であるという事実を、し かし手放しで点検しないことはややあやうい 気がします。  火山灰地で土地が痩せていた地域では蚕に よる絹糸工業が発達しましたが、  生活必需品でない絹は、その相場が安定せ ず投機的な影響を与え、上州に博徒が増える 遠因になったという話があります。  ゴールドラッシュとマカロニウエスタンみ たいですね。  あるいはラスベガス。      *  あるバイオレンス漫画の主人公いわく、 「民はみだる、君子は」  とある意味同じなのかもしれませんが、  右の頬をはられたら、左の頬をも差し出しなさい、  と宇宙牧師が教えを垂れたのに対し、 「じゃあ右胸を撃ち抜かれたら、左胸も差し  出せっていうのかい  そんなのごめんだね。」  あと漫画ついでを許してもらえば、 「勉強もしないで漫画がかけると思っているのか」  と語った漫画の主人公もいます。深いですね。 (漫画好きなの?>ええ、とっても)  筆者も今の動画漫画の現実はひどいものだ と思っていますが、  とある演出で、  ある世界で、  ある悲劇の事象を消し去ることに成功しま したが、  しかし出口をうしなったひずみの力が形を 変えて、別の種類の不幸として析出してくる ようになってしまった、  という描写をみたことがあります。  自然科学としての力学とは、  そんなものです。  ・・・その作品では、キーパーソンとして は、基本的に少女しか出てきませんでした。  世間には、女子校漫画ばかり掲載する出版 社があります。  以下、ひきこもり、おたく漫画というもの はそういうものですが、  若い世代の精神世界が、  剣と魔法という「異」世界と、 「ノスタルジアとしての」学園世界  から出てこれないことは、  現実社会に出ていくのがこわい、あるいは  現実社会とは、すでに建設的な意味で働く ことができなくなっている世界、  の双方を(それは同じことですが)指して いるのかもしれません。  厳密には、撤退案件・解体工事はそれだけ では世の役に立っているとは言えません。  価格破壊のためだけの業者交代もしかりで す。それだけの世界は、思想的には仕事が存 在しない世界と言い換えることもできます。  ・・・レズビアン、あるいはその種の漫画 の半分の背景には、正規の恋愛や結婚が経済 的に不可能になりつつあるという現実からの 逃走という、側面があるのだろうと筆者は、 想ってもいますが、  皮肉なことにもっと不況が進めば、  それも現実には不可能になってしまうかも しれないのです。  常雇としてのOLとしての格式はほぼ日本に しかなく、  海外では非正規の劣悪な待遇がスタンダー ドであるということは、  フリーアドレスとマイクロロッカーのオフ ィスが社会の常態となることが、  社会人の女性同士をも、経済的には不可能 になっていくことを示しているのかもしれま せん。  ある思慮の足らない勢いだけの政治家が、  仕事がないのならコンビニでレジでも打て ばいいと叫んだことがありますが、  たとえばコンビニは利益を人員で割るので、 貧しい店舗はたいてい週6勤務ができません。 夜中に貧相なおじいちゃんがひとりで店番を しているのは大抵の場合、無給で店に出てい るオーナー氏です。  また別の指摘として、非正規の世界では法 定賃金をあげれば日数が減るものです。  労働者の権利を保護するように命じたフラ ンスの法案は、逆に労働者の採用が手控えら れ、失業のままの人々は、馬鹿な殿様をうら むようになりました。  またトレーダーあがりの経営者はこううそ ぶきました。 「A社を立て直すことは簡単だ。  黒字部門だけをA社と呼べばいいのだ」  どぶ板の話に耳を傾けることは、なかなか 猛烈なあたまの体操になるようです。  能力や意欲があればやりがいのある世界に 切り込んでいきますから、二世議員の世界は、 どうしても後援会の座長や集票マシンに頼り がちになりがちなのですが、  政治というものの性質上、その構造はどう しても草の根のうらみを買いがちになります。  愛が、妄想の中にしか存在しなくなる、と いうのは貧しさの一形態ではあるのかもしれ ません。  漫画から、希望やあこがれが完全に揮発し てしまえば、それは真に妄想としての麻薬で しかなくなってしまいます。  発光ダイオードのお神輿に籠絡され、正義 の味方におけらにさせられる、というのでは、 それは希望というものの裏切りでしかありま せん。      *  工夫や自由な発想は、技術につながり戦争 や兵器に化けるので、それ自体が大げさに言 えば血みどろの存在ですから、沈鬱な平和を 良しとするひとびとにとっては、それは、 「忌むべき存在」  でもあります。  ですから、全面的にそれを手放しで良しと することはもちろんできませんが、  しかし卑怯や専横を我慢できない人々にと っては希望は工夫でしかありません。  第三階級の大学とはそういうものでありま した。  法学部と理工学部しかない大学とはそうい うものです。  明治の元勲のことごとくが最下層の出身な のは、儒教村落のなかでの餓死をまたれるい けにえであったからで、  またミノタウロスをバール神であると解釈 すれば、テセウスが英雄になったのは、そう しなければ殺されるだけのいけにえだったか らです。  アステカがそうであったように、当初はそ うではなかったのでしょうが、人間の弱さは、 卑怯な卑しさとして、犠牲を、捕虜や立場の 弱いものから選ぶようになっていきます。  この場合、  統治とは暴力を意味することになります。  武が天誅の名をときどき叫ばなければなら ないのは、人類の宿命なのかもしれません。  武はやはり、文と並ぶだけはある「必要」 悪であり、 「武道の少女が場面として」瞑想するのは、  表現上のリリシズムだけではなく、その背 後の認識されなければならないものとして、  ひとつには、武道というものが、結局は人 斬り包丁であるにすぎなく、 「他」という自分と同じ重さを殺害によって この世から消滅させること、  とはなんぞや、  ということを、常々智情両面で問い続けな ければならないからです。  礼を欠いたスポーツとは畜生道であり、 「心を忘れた暴力としての科学技術には夢」  がありません。  チューリングやフォン・ノイマンの例を出 すまでもなく、  計算機科学とは、軍事技術でありましたし、  その狭い枠組みの中で、工夫は善であると 言うことをゆるしてもらえれば、  グラフィカルインターフェース以前の計算 機とはまさに軍事兵器であり、  そこでの能率や生産性は、まさに正義でし た。(Graphical UserInterFace=GUI)  自分のごく狭い経験からいわせていただけ れば、  UNIXにもあるコマンドラインシェルとは、 情報の処理連結に特化した高機能な系です。  今回のパッケージを作らざるを得なかった DOSコマンドもそれに属するところのもので す。  今回の自動解凍ファイルはだいたい20個 ほどありましたが、  XPの古いシェルの上で動くファイルを列挙 型のリストとして並べ、  シェル上の一括処理を記述して動作させた ところ、ものの数十秒で処理が終了しました。  現実のコードは以下のようなものです。  実際にはエディタのうえで処理したので sedはつかっていませんが、文法の雰囲気は このようなものです。 (sed.exeはcmd.exeシェル上でも動作します) 自動解凍ファイルの拡張子: *.exe rem == sub.bat contents === rem on work directry cd . md .\%1 copy .\%1.exe .\%1\*.* cd .\%1 %1 cd .. rem ==end================== rem == main.bat =========== dir /b *.exe > list.txt copy ..\sed.exe .\*.* sed "s/\.exe//g" < list.txt > list2.txt sed "s/^/cmd\/c sub.bat /g" list2.txt > act.bat del sed.exe act.bat rem ==end================== 参考文献はここに書きましょう。 MSDOSを256倍使う本(複数) 戦うMSDOS 山田詳平氏 ともにアスキー  もしマウスとウィンドウでくりくりやって いたとしたら、もっとまどろこしいことにな っていたことでしょう。  ・・・スマートフォンの世界が、ときにい らいらするのものであるのは、それが多分に GUIの世界であり、  またtalkに参加しているほとんどの人が技 術の訓練をうけた人々ではないことだからな のでしょう。  技術というものは、軍事技術のようなもの として理解するほうがわかりやすく、  それは工場の流れ作業のようなものです。  チャップリンの映画:モダンタイムス:で はまるで工員が機械になってしまうような風 刺が出てきますが、  逆に言えば、仕事とは人間が機械となって タスクをこなすものであると言ってはいけな いのでしょうか?  手順を訓練によって日立のHチップでもあ る小脳にマッピング・コピーするようなもの で、  すべての訓練とは、  行動手順を、  人生観的な政治的躊躇から切り離していつ でも使えるように、軽快なライブラリとして たばねて格納しておくことです。  仕事が出来る人、というのは一面ではこの ようなライブラリの引き出しをたくさん持っ ている人のことを呼ぶのかもしれません。  現実論として軍務と労働はよく似ています。  部分的には、同じものなのかもしれません。  チャップリンの映画では業務というものが、 一定のリズムで作業を強要するということの 風刺でしたが、  方法論としてそれを肯定する気分の場合、  たとえば、コーヒー豆のジュート袋を皆で 民族的な歌を歌いながら積み込むさまや、  我が国でも、戦国戦闘のときけやりのよう なリズムで進軍した、という話もあります。  太田道灌は信長に似ているという指摘があ りますが、  敵方の小机城を攻略するとき、 「小机は、まず手習いのはじめなり、  いろはにほへと散り散りぬ (敵を蹴散らす)」  と歌った逸話があります。  ・・・リズムで動くということは一面では たしかに思考停止・思考放棄です  軍略の現実論では、兵士は将校ではありま せんから、思考する要請はもとめられてはい ませんから、このことは当然のことではあり ます。  ときに親御さんが、ボーイスカウトという ものをいやがることがあるのは、この辺に理 由があるのかもしれません。  武道の鍛錬でも、カンフーがそうであるよ うに、動きというものを小脳にマッピングし、 動作を自動化させるのは、  それが武道という戦争用の訓練だからです、  このような回路を大脳や意識の側から見る と、  動作のアドレスレジスタは、  動作をオンにするエントリポインタとして 見えることになります。  ポインタとはメモリ上の連続体であり、  訓練としての結果は、呼び出される関数で あるが故に、  動作は、反射的に一切の感情や躊躇なしに executeされます。  ただこのことはもちろん諸刃の剣であり、 あまりにも反射運動に適合し過ぎると、  人間が純粋に使い捨ての戦闘兵器になって しまいます。  モダンタイムスの風刺は、いわば遠回しに 厭戦を示していたと言ってもいいかもしれま せん。  たとえば、  いわゆる軍隊は軍隊であり、  また軍隊であるにしかすぎませんから、  政治的外交的な、躊躇や寝技や  あるいは心理的な戦略ということは、もち ろん得意なことではないでしょう。  筆者の個人的な偏見ですが、10代の若者 が軍隊や、格闘技に入門することはあまりい いことではないことではないと想っています。  永遠にその組織に居られるわけでもなく、  また選抜選手として収入を得られる人はご くわずかですから、  除隊したり諦めたりした人は、普通の社会 で働かなければなりません。  人格が出来る以前に、  勝利至上、殺戮技術を身に着けた人が、 社会でうまくやっていけるかどうか。  対話や交渉ごとで、権柄づくに、暴力を叫 ぶ人は、けして市民にはなれないのは自明の ことです。  また逆に皮肉として、  兵士が純粋に兵器としてのみ存在できる fieldとはある意味幸福な場所であるとも言 えるかもしれません。  広大な戦場や世界における動作を、  すべて全知全能なる千里眼の司令部の  中央集権的な命令に従えば、  なにも考えないで済むなんて、  それは気苦労におけるある種のパラダイス であるとも言えるからです。  完全なる中央集権というものは、エネルギ ー力学、また人件費の不経済により成立不可 能なことは自明であり、  また現実の戦争は、呉越同舟の野合や情報 の不透明性ゆえに理想的に機敏な展開はなか なか不可能なものではあります。 (動作自動化の文脈を受ける)  それがすべてではないにせよ、  仕事というものの基本はそのような流れ作 業・反射化したライブラリのブロックが基本 となっているはずです。  このような種の経験が乏しい人は、言動に いいわけが多いように想えます。  流れ作業は、いい仕事です。  怠け者の意味でついていけない人々は、自 動的に淘汰されるので仕事にストレスがあり ません。  怠け者でもないのにそのような仕事にむい ていない人もいるでしょうが、  それならそれで別のチャネルがあることで しょう、と書いておくにとどめます。  現実は厳しいのです。  これは、小学校の徒競走で1から6まで旗 を付けることでもあります。  処方として薄めることは出来るのでしょう が、自然や社会の背景にはやはり競争があり ます。  競争が努力を呼び、努力が全体の品質を維 持します。  品質を良くすることを、過去にはそれを進 化とよぶこともありましたが、  ダーウィンを安易に持ち出すと、その文節 はかつてのたとえばナチスを連想させかねな いので、危険ではあります。  進化という言葉はあまり使わないほうがい い言葉だと想っています。多くの人たちがそ れを語る詐欺師に騙されてきました。  改良とは、  電撃戦による奪取が可能なほど先鋭化した 機械化部隊に至るのではなく、  ロココ的な社会が陳腐・堕落化するのを補 正する、動的水面としての現状維持のコスト として存在する、と書けば響きがソフトにな ります。  戦争と、競争を比するとき、  競争が全体の品質の維持にもっとも大きく 働くのに対し、  殲滅戦の意味を持つ場合の戦争とは、ある 唯一の、皇帝機構の価値を高めるためにその 他の人々を皆殺しにすることです。  殲滅戦とは大抵の場合、権威を恐怖にとっ て引き上げるために使われるので、  後述しますが、  極端な帝国皇帝の政体で起きることが多い のでしょう。 「いうこときかなきゃ、こうだ」  システム論では、極端な中央集権はエネル ギー的に無駄が多いので、自然・素朴な集団 は、生物学的に全滅を好みません。  蝗害や病原体によって作物が全滅するのは、 生態系が単調か、人為的に増やされた多様 性の低い遺伝子プールであるばあいで、  これも概念のことばを借りれば「極端」の 一種であります。  また、大抵の生物が、同種の遺伝子をかな らず2個1セットもつ2n複相であるのは、 陰的因子の害がいきなり表にでないで済むか らです。  核相単相の世界では、競争圧が苛烈になり 過ぎ、複雑な構造が必要な有機的多細胞の仕 組みを作ることができませんでした。  極端な競争社会が、限界的に存続できない、 という意味では、自然は統計的現象としてよ りマイルドな競争の舞台を、用意しました。  自然や社会がより素朴であれば、  殲滅収容所などは出現しなくてもよかった のです。  恐怖を統治の一手段として使ったという意 味では、鍵十字は確かに帝国だったかもしれ ません。  一方競争の乏しい世界とはいわば、  悪い言葉ですが暇をもてあますか、あまえ んぼうの世界なので、  talkとはお喋りであり、  疲れ果ててしまうほど仕事にうちこんでな い人の、自己弁護としての言い訳があふれる スナックは、仕事や世間を舐めている半端な 酔っぱらいの空間であり、  頑張っている人々は24hのうち、そんな に傷をなめ合うことに時間を割くことはでき ないはずです。  また生活でもビジネスでもタスクを切り分 ける訓練が適度にできていれば、  泥酔スナックのようなチャネルで過剰に他 人に甘えることが、どんなにおろかしいこと かは、分かるところのものだと想うのですが ・・・。  結果から言えば何でも言えますが、  大学院生の紳士録の技術を、  一般に開放することは、実は利益よりも害 のほうが多かった、というのはおそらく現実 のようです。  スマートフォンの技術は、逃げ込める 「ひだ」を大量に提供し、  多くの甘えを量産し、  むしろ民主主義が機能しにくくなった結果 を招いたような気がします。  先進国では、少子化による競争の激減の減 圧もあるのでしょうが、  親や人生の先輩から論理の構築を含む文法 を若い世代は習得してはいません。  むかつく  たるい  ずるー  むりむりむりむり  2020年代現在、齢20、30代の会話 は、まるで小学生の仲良しチームのままです。  子供を親や賢明な伝統や経験から引き離し、 安いバイトをさせ、  劣悪な興行を買わせるのは、  河原メディアの常套手段ですが、  スマートフォンは、閉鎖的な内容のSNS のデバイスとして機能することにより、  若い世代を伝統的な賢明さから分断し、  処理収容所のように消費される豚肉として の単位に孤立させることに、  加担することに成功したとも言えるかもし れません。  無責任な興行消費の未来には、暗いグリム の童話の闇しかありえません。  オープンであるはずのソーシャルメディア が、いわゆる蛸壺スナック的な閉鎖性によっ て行き詰って行くことは、  コマンドライン画面の昔から何回も繰り返 されてきた事柄なのです。 (当時は9800bpsの音声信号で接続し ていました。  WTERMのマクロもまたバッチ処理でした。)      *  いま、文教政策でおもちゃ教材をつかって プログラミングの基礎を教えようというここ ろみがあるようですが、  実際にそれがなにかの役に立つのかという ことは、はなはだ疑問です。  一言で言えば、それらの遊具や教材で得た ことが、実地に応用の効くそれであるとは、 言い難いことです。  表計算でもオペレーティングシステムでも、 ライブラリや関数が巨大になりすぎ、個人の 履修ではそれらをカバーすることが事実上不 可能だからでもあります。  チームで動くにしても、希少な存在である プロジェクトマネージャーが不在では、泥舟 はどこにむかうのかもわかりません。  まして他人が構築した矛盾だらけのシステ ムを継承や改良することは、  事実上手のうちようのない、瀕死の病人に 相対しているがごとくであるのと同じである ということは、多くの人々が認識していませ ん。  これでは仕事や雇用であるとは  とても言えず、  第一プラットフォームのソフトハウス側も 自分たちの利益確保のため必要もないバージ ョンアップを繰り返し、システムが巨大鈍重 になりすぎています。  業界を良くしようという義務感が  見えません。  パラドックスですが、軍事技術であること をやめたがゆえに、正義という観念がおそら く消失してしまったことは、  スロットマシーンの世界とおなじことです。  博徒は居ても、  シリコンの世界にサムライは居ないと言い 換えてもいいでしょう。  事実、20年前の軽快なシステムでも、現 状の業務は動作はしては、いました。  個人や学生が論理の訓練を行うためには、 GUIのAPIを覚えることではなく、コマンド ラインで、論理を連結することぐらいしか思 いつきませんが、その世界は現実の雇用には 結びつきません。      *  またこれは、英会話の習得にも関連する事 象かもしれません。  日本語が上手にあつかえない学生はまた英 文の収得がうまくないという指摘をみたこと があります。  脳神経のネットワークの理論の詳細はゆず るとしますが、  合目的性の意思系の構築がうまく言ってい なければ、第二第三の習得もうまくは行かな いのは、また事実ではあるでしょう。  情操・認知の収得はなにものにも優先する、 とかきたいところですが、  人格教育とはもちろん厚生省の管轄ではあ りません。  ・・・ええ、ありません。  そうだったらおそろしいことです。  また、甘い世代の親の下にうまれ、こわい 大人を知らない子どもたちは世間をなめきっ ていて、なんら研鑽をしていません。  関東の野卑な旧天狗党の土地では、  20人もの中学生が、客を蹴散らしながら ファミリーレストランで鬼ごっこをしていま す。  もしここに小火器があったとしたら、この 字はたちまち紛争地域のアフリカになってし まうでしょう。  ある漫画は、もともと風刺だったという説 があります。  眉間に縦じわを刻んだご婦人なら、子供と は、良くも悪くもチンパンジーのような猛獣 として生まれてくるのだということをご存知 のはずです。  子供はしつけなければ、たいていわがまま 犬としてのろくでなしになってしまいます。 人を殺すことは犯罪ですから、失敗だからと いって保健所につれていくわけにもいきませ ん。  かくして、  かつて底辺校は姥捨て山ならぬ子供捨て場 となり、  また競争のない全入時代では、大学生とは ギャングを意味するようになりました。  大学の教員は、ギャングのスニーカーをひ ざまずいて舐めているのです。  これ6万もしたんだよう、汚い舌で舐めな いでよね。 「なめてみればー」  と真顔で言われれば、瞬間的には殺意が湧 くものでしょうね。だから風刺だったのです。  倫理観正義感といえば、大げさかもしれま せんが、小手先のプログラム論理云々の前に、 自分がどこにいてどこに行こうとしているの かを、認識する言葉の訓練がまず、必要な気 がします。  これは、まず基本的には、親御さんが垂れ るべきものでしょう。  ちゃんとしていない家庭の子供は、まず使 い物になりません。  意識と資金というものは、子息氏の人格形 成に必須です。親御氏が忙しすぎたり、意識 の上でも貧しい場合、大抵の場合、子供は大 人の世界に入ることができません。  神経線維の結合という意味での成長は、 10歳頃から盛んになり、その複雑な3次元 的ネットワークの密林のある程度の完成とさ らなる発達は、  具体的な表現では、空間時間的な認識と運 動行動を可能にします。  いわゆる思いやりとしての優しさは、  彼我の関係性が社会的ポジションという相 対空間であるがゆえに、  その社会的優しさとは、大脳の発達を必要 とするのです。  子供がときに残酷なのは、幼稚であるが故 である、という帰納ができるわけです。  例えば事象として、  日雇いの仕事はしてはなりません。  金遣いがだらしなく、  自分が残虐であることに気が付かない、  一種の発達遅滞の世界です。  だれかが死んでも、その原因が自分にある ことをなかなか理解できないのです。  それどころか、怠惰でもある保身のために 一生懸命いいわけをならべたてます。  前述の10歳という区切りを目安にすれば、 大抵の嫌われ者とは、小学校の低学年にみえ るものかもしれません。  わがままな子供の典型として、ひとつあげ れば、  のどが渇いただろうという気遣いとして、 「みかんジュース」  を買ってかえったとします。 「僕の飲みたかったのは、  これのぶどう味なの!」  と癇癪起こされて投げ返されたらどうでしょ う。  幼児であればさもありなん、  小学校の高学年であれば、親御さんはどのよ うなしつけをされてきたのだろうと普通は思わ れてしまうはずです。 ・親御さんが認識が甘い ・無関心や多忙により放任 ・早くからの子供部屋の貸与によって  外部の世界を知らない ・一人遊びとしての電子遊戯への長時間の没頭 ・少子化低競争による勉学の不要  幼児の段階にとどまる繭環境の横溢の世相の せいか、肉体的には成人でも、精神的には前述 の10歳程度の若者を最近はとてもおおくめに します。  間脳は情動の座でもあり、  それは、主に大脳のネットワークによる抑制 が効かないと、原始的な自我の欲求の発露が全 面にでてきているままの段階にとどまるという ことを意味します。  大脳生理学的に、空間認識機能の一応用が社 会や周囲への関わり合いであるとすれば、  平均10歳以降の脳神経と精神の発達が遅れ ているままでは、 「社会で、うまく生きていけない」  ということにもなります。 ・労働とは、他者との相互扶助であり、  またそれは集約を経れば「貿易」でもあるこ とになり、 ・また、社会の建設的な構造が崩れていくとき、 他者が圧迫してくる事象は戦争と呼ばれ、  また、その状況では、まさに構造的知能であ る「戦略」とは、広義の戦闘状況におけるまず 自らの生存のために必要なことがらとなります。  遅滞により、論理よりも暴言、  口よりも暴力への親和があり、  また経験不足・思考の浅さにより身の守り方 もうまくない世代にとって、  慢性的に不穏な世相が続くことは、  まあ当然に思えます。  畜産に於いて、飼育場でクラシックを掛ける という事例と同じことですが、  リラックスしたストレスフリーの状態では、  成長ホルモンの分泌がうながされて  促成肥育が可能という事柄は、  最近の小学生の身長の高さと、  あどけない表情を連想させます。  おそらくそれは、科学的には等価な事象でし ょうから、あまりいいことではないと思います。  広義の神経系の発達に於いて、適切なストレ ス経験と、その対処にエネルギーを裂くことは 必須ですから、  水っぽいブロイラー、  もっきりおれるうどの大木、  という状態は、内面の発達がやはり遅れてい ることを示唆するのかもしれません。 「体は大人、心は子供」  のびのび育ちすぎて伸び切った子供が、未来 のロボットに子守をされている、という揶揄は 残念ながら現実になりました。  うどの大木には色気がないので、  AVに出演することもできません。  色気や憧れのない劣悪は、お互いに恋をする ことができないので、その感情は相互憎悪に傾 くことでしょう。      *  長くなってしまった文章を結びたいところ ですが、  すくなくとも、技術や道具とはかならずし もファッションではないのだということと、  それを売りつける悪い大人が確かにいると いうことが、半分。  子供の立場は、打開に必要な賭けに、必要 な肥料としての好奇心がなければその立場が 殺される、というのが残りの半分。  種としての哺乳類の存続には、若い個体の 好奇心が必要だということはいまは書かなく てもいいでしょう。80億もいるのですから。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  ※文末注釈 ・えげつはなかった地方本位  強権帝国に比して、代々の幕府が相対的に 権力が乏しい存在であったのは事実ではあり ますが、もちろん全くなかったわけではあり ません。  幕府の権威とは、本領安堵つまり耕作地・ 田畑の相続の正当性にたちあうことでした。  つまり、耕作地の相続や分割に関して、 それにたちあい、道義的な正当性を保証する 権威でありまた機関であったわけです。  その権威とは、多くの諸侯がその信頼と承 認を付していることによってなりたち、  また幕府側はその実績をよりどころにして いました。  案件に対する武断動員に際しては、その信 頼と実績を背景として、盟主である立場の将 軍が、諸侯に対して「お願いをする」という 立場を取ります。  三権分立の中では、侯爵国に対する部分的 な司法権だけということができます。  また、たぶんに情緒の世界にかたむき、  厳密には、幕府機構の中には権威しかなく、 権力というものは存在していないとも言えま す。  この「おねがい」を命令と、  軍事労働を商業価値であると無理に解釈す れば、幕府と将軍の唯一の「徴税権」とは軍 事動員役のみであるとも理論づけられるのか もしれませんが。  また当然、  侯爵国間や内部の紛争を調停できなければ、 幕府の権威は失墜するのも道理です。  また九州に元寇が来襲した日本は団結して これにあたりましたが、  撃退することができたとはいえ、  構造上、お金を持っていない幕府は侯国侯 になんら手当をあたえることができませんで した。  公地公民ではないので、人民に対して直接 幕府が徴税することはできないのです。  その次の室町政権が商業を重視したことと は、いかにも対照的です。  帝国皇帝体制とは、商工業の基盤が前提で すから、  幕府を名乗ってはいますが、武門の棟梁と いうよりはその気分はやや皇帝に近い気分の 「王」だったのかもしれません。  義満の逸話に「日本国王」のそれがあるの は、象徴的におもえます。      * ・賽銭箱  イメージとして思い浮かんでしまったので、 ついついそう書いてしまいましたが、自分は もちろん○様などではけっしてありません。  有料道路の10円箱ぐらいを考えてくださ れば幸いです。  わしをあんなものに何千年もとじこめおって  ふん!  弾け飛ぶ炊飯器。  あ、これ○様じゃないや  ×魔だった。  漫画好きなの? >それで育ったんだから  仕方ないでしょ  ・・・自分は戦闘漫画よりもほのぼのギャ グのほうが好きです。同じ声優さんというこ とで、両世界の登場人物が会したことがかつ てありました。  お手合わせの結果ですが、ギャグがシリア スを叩き潰してしまいました。  理系の人の文章がときに面白いのは、  ひとつには、極端な事象の中では、日常的 な常識がまったく通用しないことを知ってい るからです。  量子力学や相対論は、日常的な感覚の中で は冗談としかおもえないものです。恣意のた めの工学ではなく、冗談としての理科にみな が親しめば、  ネットなどでもちらほら見える扇動や洗脳 にも免疫がつくかもしれません。そのかっこ よさが付け足しやメッキかを見分ける無意識 の力として。 ====================  文書の終わり。 ====================